皆様こんにちは。やっぱり今年も暑いですね^^夏と言えば暑いのは当たり前なのですが何となく毎年前年より気温が上がってるような気がしてなりません。10年後には50度になるんじゃないかと思うくらいです。(ならないと思いますが…)
塾の中はしっかりと冷房が効いていますので塾生達は教室に入ってくるなり
「うわー、すずしー天国ー♪」と言っています。
さて、本日のブログテーマですが『夏休みの宿題』についてです。小学生と中学生では出される質が異なりますので別々の結論を用意する必要がありますが小・中共通して言えることが1つあります。それは、
『宿題を出した先生が最後まできちんと責任を持ってほしい』ということです。
『課題を出すなら何かしらのアドバイスをしてあげてほしい』とも言えます。
前にも書きましたが、日本の公教育は『皆平等』の精神です。勉強ができる子もできない子も全員同じものをやらされ、同じ提出日です。発展途上国や社会主義の国であればそのような教育もいいかもしれません。しかし、このグローバルな世の中で、個の重要性が問われている近代的な状況においても、昭和の古臭い教育観がずっと蔓延していることにあきれ返るばかりです。
作文や読書感想文など中学校では書かせるだけで、国語担当のほとんどの先生は読んだりしないそうです(中学校の先生が以前言ってました)誰も添削しない作文など一体書く意味があるのでしょうか?書いたのならどこが良くて、どこが悪いのか、何かしらアドバイスが欲しいのは当然のことだと考えます。
世の中は常に変化しています。例えば、一昔前は『ゲームなんて何の役にも立たないから勉強しなさい!!』と親は子を叱りつけていました。しかし、今はどうでしょう。eスポーツという分野が生まれ、頂点のプレーヤーは賞金1億円を手にすることが出来ます。1億円と言えば一般の人が40年間休みなく必死に働いて稼ぐ金額です。ゲームの実況を行っているユーチューバーは学力が無くても、ゲームの腕さえあれば何千万というお金を稼ぐことも出来ます。子供にゲームの才能があるならば勉強なんかやらせずにゲームばかりやらせていてもいいくらいです。(健康のことは勿論考えた上で)
このように、昭和の古き時代の慣習が現代にはそぐわないことが多くなってきています。私は、学校の宿題もその一つだと考えています。
小学校の宿題で夏休みの『ドリル』が出ます。国語や算数がひとまとめになっていて、宿題としては出しやすいでしょう。しかし、そのドリルを誰が責任をもってチェックするのか。学校の先生は夏休み後やったかどうかをチェックするだけで中身はほぼ見ませんし、できない問題の解説などはほぼやりません。では、できない問題は誰が教えるのか?多くの家庭では親でしょう。そして、多くの家庭では子供と『格闘』しながら教えることになります。自分で〇つけをする子もいるかもしれません。でも、親が教えられない問題もきっと出てくるでしょう。現状それはそのままになります。これでいいのでしょうか??
中学校の宿題で言えば、ある中学では、数学の課題で同じような計算問題ばかりがプリント10枚ほど出ています。答えは無いそうです。その理由は『答えを渡すと写すから』だそうです。生徒が何時間もかけて必死に10枚のプリントを終わらせて先生に提出します。先生はハンコをポンと1つ押して終わりです。丸つけもしません。この宿題にはたして何の意義があるのでしょう?
私は塾生達に常々『結果の出る時間の使い方をしよう』と言っています。例えば上記のような学力の上昇が見込めない勉強は結果が出る時間の使い方とは思えません。その時間があるなら家族みんなで楽しい食事にでも行ったり好きなことに思いっきり打ち込んだりした方が将来的には有益かもしれません。
例えば私が小学校の先生ならば、ドリルで子供が苦労した問題やできなかった問題を親がラインで先生に送って、多くの生徒が躓いた問題を2学期が始まったら授業します。
例えば私が中学校の先生ならば、そもそも同じような計算問題ばかり10枚などというバカげた課題は出しません。出しても3~4枚です。終了したらラインで苦労した問題やできなかった問題を送ってもらいます。2学期の授業初回はみんなで〇つけ&躓いた問題の解説です。
何故、2学期が始まったらではなく『事前にライン』を使うかというと、単純な話です。子供達はできなかった問題をあっという間に忘れます。2学期が始まってからだと『あれわかんないとこどこだっけなー、わかんない所がどこだかわからない!』ということに必ず、か・なら・ずなるからです。経験上よーーーく知っています。鉄は熱いうちに打つべきなのです。
ラインを送れる環境のない生徒も出てくるかもしれませんがあまり多くないと思うのでそこは登校日や日程を調整してそういう生徒のために質問を聞く日を1日作れば済みます。
平成から令和に変わった現代において、公教育がいまだに昭和であることが残念でなりません。変わっていけるように私も微力ながら批判だけではなく、献身的な意見を出し続けていきたいと思います。皆さんはどう思いますか?
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